2013年01月29日

情熱の舟

 A氏は常に言いようもない悲しみに包まれている人だった。その正体が何であるのか、A氏自身は理解していたのかもしれないが、私にはわからないものだった。何か思い悩むことでもおありでしょうか、と思いきって訊ねたこともしばしばあったが、その度にA氏はおどけて見せたものだ。そういう兆候が十分にあったからこそ、A氏が失踪したとき、私は特別驚きもしなかった。
 A氏がいなくなった最初のうちこそ、A氏の周囲の人々は大騒ぎしたものであったが、事件や事故による失踪ではなく自身の意思によるものであることが察せられるにつれ、理不尽さややるせなさと引き換えに次第に落ち着きを見せるようになった。今や誰もA氏の名前は口に出さない。A氏の仕事上のポストは新たな中途採用者に代わり、A氏と恋仲にあった女性は今春に別の男性と籍を入れるという。
 時折、私はA氏の住まいだった場所を訪れる。人気のなさは、しんと静まり返った湖の水面を思わせる。その水面にちょんと爪先で触れてみると驚くほど冷たかったのだった。

***

タイトル競作投稿分 ○:1、×:1
posted by いさや at 01:02| Comment(0) | 書き物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。